創始者三輪徳太郎は、明治21年3月、三輪組(現三輪運輸工業株式会社の前身)を創業。脇浜(現神戸市中央区脇浜町2丁目65番)に事務所を構え、貨物陸揚げ運搬業を始めた。当時、脇浜の事務所があった辺りは白砂青松の海辺であった。
創業当時は、港に出入する外国船や国内船の荷揚げ、積み込み、運搬、倉入れなどに取り組んだ。いろんな取引先があったが、とくに「洋糖取引商・鈴木商店」の仕事が多かった。鈴木商店は順調に業績を伸ばし、後年(明治32年)、台湾樟脳を扱うようになってからは急速に発展し、まず住友樟脳製造所を買収(明治36年)、さらに大里製糖所を建設(同年)し、生産部門への進出を始めた。
徳太郎は、この鈴木商店とのつながりから神戸製鋼所の運搬業としての基礎を築いたのである。
鈴木商店は創業者の鈴木岩次郎(明治27年没)の死後、お家さんで有名な未亡人であるよねが当主となって、経営を任せた番頭の金子直吉、柳田冨士松の商才で発展し、台湾の樟脳、砂糖の取扱いで躍進をつづけていた。
明治38年9月、経営に行き詰った小林製鋼所を買収し、社名を神戸製鋼所とした。この製鋼所は神戸脇浜にあり、3.5トンの平炉一基を主力とする鋳鋼工場であった。鈴木商店が小林製鋼所建設に際して融資していた関係で買収したものである。
初代神戸製鋼所支配人は田宮嘉右衛門氏であった。鈴木商店でも、製鉄業については、これまで全く経験がなく、田宮支配人以下の努力によって技術的な面はよくなったものの赤字の連続で、一時は三井、三菱が買い取るという話までが出たくらいであった。しかし、鉄鋼業の将来性を確信していた金子、田宮両氏の強気で事業を継続した。
しかし、業績は上がらず、引きつづき赤字の連続であった。苦闘の毎日をどう切り抜けるか、田宮支配人は厳しい決断を迫られた。尋常な手段ではこの難関を突破することは不可能であった。
思い切った経費の節減を図ること。これには組織の改革、作業能率の改善を断行する以外に道はない。神戸製鋼所が誕生して3年目の明治41年のことであった。
当時の主要製品は、「神戸製鋼八十年」によると、鍛冶屋で使う金床や錨、炭坑用トロッコの車輪など鋳物であった。
三輪組はこんな状況にあった神戸製鋼所の原材料の荷揚げ運搬、製品の積み出し荷役から土木工事などの請負業者として出入りしていた。
動力源は馬や牛が主力
神戸製鋼所の経営再建に取り組んだ田宮支配人は、作業状況を綿密に検討してゆくと、旧いしきたりによる非合理的な問題点が多く、この作業責任者である技師長に問題があると判断した。そこで熟慮の末、この技師長に辞職を勧告した。
田宮支配人にとっては、これまで苦労を共にした仲間をやめさせることは苦しいことであったが、会社再建の大目的を遂行するためには止むを得ないことであった。が、従業員のなかにはこの技師長を支持する者もおり、技師長をくびにして、新しい作業方法で我々を締めつけてくるのではないか、また我々もくびにされるのではないか、など工場内でさまざまな推測やデマがとび、田宮支配人の身の安全が気遣われるような不穏な空気に包まれていた。
徳太郎は会社の下請の一運送業者であったが、かねてから田宮支配人の先見力、経営能力、人柄を尊敬の目で見ていた。工場内での田宮支配人の立場に微妙な雰囲気が漂いはじめた。工場内には血の気の多い若者が多い。田宮支配人に対して何を仕出すかわからない。
徳太郎はそれとなく田宮支配人の身辺に気を遣っていた。あるときは田宮支配人の身の危険を察知し、着ている法被の中に小柄な田宮支配人を、子供を抱えるように入れて難を逃れたというエピソードが残っている。それほどに徳太郎は正義感が強く、義理人情に厚い男であった。若い時は遊びも相当なもので、誰にも負けない猛者であったという。
神戸製鋼所の経営改善、合理化騒動も終わったある日、徳太郎は田宮家を訪問し、「荷馬車を買うから、神戸製鋼所の専属として運送をやらせてください」とお願いしたところ、田宮支配人は「よろしい、やらせよう。ただし条件がある。今後一切、遊びをやめること。それを承知すればやらせよう」と言われた。もちろん徳太郎は「遊びは一切やめる」ことを誓ったことは言うまでもない。それ以降は本当に遊びをやめ、精魂込めて仕事に打ちこんだ。こうして陸運の専属だけでなく、後には石炭の水切り作業の仕事も引きうけるようになった。
徳太郎は、田宮支配人を畏敬し、献身的に仕え、神戸製鋼所のためなら「水火も辞せず」と誠心誠意仕事に励んだ。
神戸製鋼所は苦難の経営をつづけながらも、明治44年6月28日、合名会社鈴木商店から分離して株式会社神戸製鋼所となった。
- 田宮嘉右衛門翁の写真
- 創業者三輪徳太郎の写真
神戸製鋼所の専属になって以来、労使一体となってよく働き、神戸製鋼所の専属運送会社としての基礎を築いた。
この労使一体の精神を「総親和」という言葉で表し、企業発展のためのスローガンとした。これが今日まで受け継がれ、当社の社是のひとつになっている。
三輪組の仕事は脇の浜で石炭とかスクラップなどの原材料を荷揚げして工場へ運ぶこと、また工場で生産された製品(金床、トロッコの車輪、錨など)を港まで運び船に積みこむことであった。当時の運搬手段は、先にも述べたとおり肩引きの大八車、馬車、牛車などで、とくに重量物は牛車が使用されていた。そして積み込み、荷揚げは人力のみであった。
田宮嘉右衛門翁直筆の書である。
三輪組の「刺子半纏」
刺子は昭和の初めごろまで、消防団の出動や慶事の際に小頭(現在の現場監督)以上の者が着用したもので、裏地には極彩色の鮮やかな昇龍の絵が配されている。
神戸製鋼所は創業以来ずっと赤字をつづけていた。その下請運送業者としての三輪組も当然ながら悪戦苦闘の経営状態であった。
ところが大正3年7月、第一次世界大戦が勃発すると、日本の輸出が急速に伸び、鉄鋼をはじめ各産業分野が活況を呈し、空前の大戦景気をもたらした。
神戸製鋼所も増加する輸出需要に対応するため、業容の拡充を計画し、新技術の導入開発、工場の拡張など積極的な設備増強の実施に踏み切った。
神戸製鋼所が新工場建設用地として、脇浜地先公有水面埋立工事を申請し認可された。埋立ては第1次から第4次までの工事で総面積約4万坪(12万m2強)の造成計画である。
大正4年10月、土地造成のための埋立て工事を開始、9年10月に完成した。約4万坪の造成工事は三輪組が主体で実施した。5年間にわたる長期の埋立て工事の無事完成を祈り、人柱(藁で作った人形)を埋めるなどの精魂込めての大工事であった。
大正8年には脇浜の埋立て工事がほぼ完成し、神戸製鋼所海岸工場と呼称された。翌9年、溶溶工場、鋳鋼工場、2,000トンプレス工場が完成。つづいて10年には機械工場が完成操業した。
三輪組では、神戸製鋼海岸工場の操業にあたって、8年6月従来からの運搬業以外に、新しく工業部門(ガス切断、切削業)を新設し、神戸製鋼所の要請を受けて、製鉄原料のスクラップなどを炉に入れるためにガスで切断する業務を開始した。これが、当社の工業部門進出の第一歩であった。
あれほど頑健で勇猛果敢を自負していた徳太郎も70歳を越えた頃には、寄る年波には勝てず体調を崩し、阪大病院へ入院加療していたが、大正14年3月23日永眠した。享年72歳。
荒っぽい男の仕事として自分の生涯をかけた運送業。任侠の男・徳太郎が体を張って築き上げた従業員50名を抱える三輪組を遺し、神戸製鋼所をはじめ多くの人々に惜しまれながらこの世を去った。
企業がこれからも発展していくには、明確な将来のビジョンが必要であり、グローバル化していくことは確かに重要であろう。しかしながら、未来は過去から現代への延長線上にある。どんなに新しい価値観が取り込まれたとしても、今を支える歴史を消し去ることがあってはならない。その歴史にこそ、企業の存在意義を見出すことができる。創始者や先人たちが時代の流れの中で、どう困難に立ち向かい克服してきたのか、その原点を回帰し、長く伝承されてきた企業文化をしっかりと守っていくことも企業が今後も発展し、存続していく上で大きなパワーになると信じる。